最近、ずっと「贅沢」という言葉から遠ざかっている気がする。
ここで言う贅沢とは、好きなものを好きなだけ食べるとか、酒を飲むとなそういうことではない(それも充分贅沢なのだが)。
もっと形而上学的で、実用性のかけらもない、それでいてこの上なく心を満たすもののことだ。
たとえば、音楽や、読書、絵を描くことなどだ。
考えてみれば、これらほど「無駄」なものはない。音楽を聴いたところで腹は膨れないし、小説を読んだところでお金はもらえない。絵を描いたところで、明日の仕事で使えるTipsが転がっているわけでもない。
極論これらはすべて、生きるために全く必要のない、むしろ生活の邪魔にすらなりかねない「余計なもの」の集合体だ(その割にこれらは時間をとても消費する)。
しかし、その「無駄」こそが、人生における最高の贅沢だと感じる。
現代社会では、常に「効率」と「生産性」に追われる。
仕事もプライベートも、いかに時間を有効活用し、いかに多くの成果を出すかを求められる。
その結果、心は砂漠のように乾ききっているのに、潤いを与えるための「無駄」な時間など、どこにも見当たらない。
YouTubeで好きな音楽を聴き、音の世界に浸る時間。寝る前にベッドで、時間を忘れてフィクションを読む時間。白い紙に自分の心を描きとる時間。
これらはすべて、生産性とは無縁の世界だ。何かが生まれるわけでもないし、誰かの役に立つわけでもない。ただひたすらに、自分の内面と向き合い、感性を研ぎ澄ますだけの行為だ。
だが、その「無駄」な時間にこそ、人間の心は豊かな水を湛えることができるのかもしれない。
最近の僕は、朝から晩まで仕事の連絡と資料に囲まれ、休日は溜まった家事を片付け、気がつけば一週間が終わっている。
いつの間にか心の奥底から湧き上がっていたはずの、ささやかな感動や喜び、そして悲しみといった感情すらも、平坦な砂漠のようになってしまったような気がする。
ああ、なんて貧しいのだろう。人生最高の贅沢品を、こんなにも手放してしまっているなんて。
ホセ・ムヒカも言っている。
「私たちは発展するために生まれてきたわけではない。幸せになるために地球に生まれてきたのだ。」
先日聞いた話だ、
縄文土器には、その名の通り、縄跡の美しい模様が緻密に施されている。一方、次の弥生時代になると、土器からそういった装飾はほとんど姿を消す。なぜか。
単純に技術が失われたわけではないだろう。
そして、人骨の調査からは、縄文時代に大規模な争いがほとんどなかったことがわかっている。ところが弥生時代になると、今と同じように領土を巡る争いが頻繁に起こり、人々の間に争いがつきものになった。
この違いは、一体どこから来るのだろうか?
縄文時代は、世界の四大文明には名を連ねていない。しかし、そこに確かに存在したのは、現代社会が忘れ去りつつある、深い文化だったのではないか。土器に施された縄跡の模様は、生活必需品に「美」という無駄を追求する心の余裕を示している。争いが少なかったという事実は、生存競争に汲々とするばかりではない、穏やかで満たされた暮らしがあったことを物語るのだろう。
そう、文化は余裕から生まれるのだ、と僕は思う。
食料を確保するのに必死で、明日の命も危うい状況で、誰が土器に美しい模様を描くことに時間を費やすだろうか?
常に隣の部族と領地を奪い合う緊張状態の中で、心穏やかに歌を口ずさむことができるだろうか?
縄文時代の人々は、おそらく現代の僕たちよりも、はるかに「精神的な余裕」を持っていた。自然の恵みを享受し、必要以上の争いをせず、自分たちの手で暮らしを彩る。それは、私たちが見失いつつある、真の豊かさの象徴なのかもしれない。
もはや、仕事漬けの日々は「生きている」のではなく、「生かされている」とでも言うべきか。たまには、いや、もっと頻繁に、無駄で、非生産的で、効率のかけらもない、そんな最高の贅沢に溺れたいものだ。
そうでなければ、僕の心は本当に、枯れ果ててしまうだろう。縄文の人々が見せてくれた「余裕」と「文化」の深い繋がりを思い、今一度、自分の生活を見つめ直す必要がある。
とは言いつつも僕は、今の生活がけっこう気に入っている。
また少し芸術に触れる時間をプラスできたなら、申し分ないかな。